将棋は将棋盤の上で行うものですが、屋外に飛び出して文字通り人間が駒になって将棋を指そうというユニークなイベントが人間将棋です。
人間将棋は人間が駒に扮してただ将棋を指すというだけでなく、歴史も古く周囲の景色や服装などと相まって日本文化を感じさせる一大歴史絵巻ともいえるものです。
また、一般の将棋とはひと味違う、その独特のルールが大変ユニークです。
今回は、山形県の天童さくらまつりのイベントとして人気の人間将棋の歴史とルールなどについて見ていきます。
人間将棋とは?
人間将棋とは山形県天童市の「天童桜まつり」で毎年4月の第3土曜日・日曜日の2日間に催されるイベントで、その名の通り、甲冑(かっちゅう)や着物姿に身を包んだ武者や腰元たちが将棋の駒に扮してプロ棋士や女流棋士が対局を行うというものです。
人間将棋では駒となる人間は一般から公募され、甲冑姿の地元高校生らが将棋の駒役となり、縦約17m、横約14mの巨大な盤上を棋士の指示に従って動き回ります。
舞台となる天童・舞鶴山では天童桜まつりとともに約2,000本の桜が咲き乱れ多くの観光客で賑わいます。
天童人間将棋はまさに天童に春の訪れを告げる一大イベントで、天童藩主が人間を将棋の駒に見立てて対局したという故事を再現したイベントです。桜舞う舞鶴山で見るその光景は、日本文化そのものといえます。
甲冑(かっちゅう)や着物姿に身を包んだ武者や腰元たちが将棋の駒に扮してプロ棋士・女流棋士が対局
開催日程:毎年4月の第3土曜日・日曜日(「天童桜まつり」)
開催場所:舞鶴山(山形県天童市)
人間将棋の歴史~山形県の天童さくらまつりの人気イベント
続いて、人間将棋の歴史を見ていきましょう。
人間将棋の歴史は古く、豊臣秀吉が伏見城で小姓や腰元を将棋の駒に見立てて「将棋野試合」を行ったという故事がきっかけといわれています。
ご存知のように天童は将棋駒の生産量日本一を誇る“将棋のまち”として知られていますが、天童での駒の生産は江戸時代から始まっていました。
そして、天童では1956年(昭和31年)から「桜まつり」が開催され、人間将棋はその中のイベントのひとつとして始まりました。
天童人間将棋はすでに60年以上も続く歴史ある伝統行事で、当初は地元の市長などが対局者を務めていました。そして1972年からはプロ棋士をゲストとして招待するようになり、さらに1992年からは実際にプロ棋士が対局者も務めるようになりました。
2011年は東日本大震災、2020・2021年は新型コロナウイルスの影響により中止に追い込まれましたが、2022年には藤井聡太竜王(当時)が対局者として天童を訪れました。
豊臣秀吉が伏見城で小姓や腰元を将棋の駒に見立てて「将棋野試合」を行ったのがきっかけ
天童では1956年から「天童桜まつり」の中のイベントのひとつとして開始
※1992年からプロ棋士が対局者
人間将棋のルール
人間将棋のルールは、通常の将棋のルールと基本的には同じですが、ひとつだけ暗黙の了解があってプロ棋士が気を遣うことがあります。
それは、
「すべての駒を動かす」
ということです。
人間将棋は駒が人間であるため、動かさなければ最後まで座ったままの状態となります。せっかく参加してもこれではかわいそうです。
特に香車という駒の役割になった人は出番が少なく、なかなか動かないことも多いです。そして、実際にすべての駒が動いた時には会場は大きく盛り上がります。
なお、人間将棋では先手と後手で衣装が色分けされており(相手の持ち駒となっても衣装の色はそのまま)、歩兵は女性しか務めることができません。
基本的には通常の将棋と同じ(ただし、「すべての駒を動かす」という暗黙の了解)
人間将棋の歴史とルール~まとめ
今回は、山形県の天童さくらまつりのイベントとして人気の人間将棋の歴史とルールなどについて見てきました。
人間将棋の歴史は古く、豊臣秀吉が伏見城で小姓や腰元を将棋の駒に見立てて「将棋野試合」を行ったのがきっかけで、天童では1956年(昭和31年)から始まった「桜まつり」のイベントのひとつとして始まりました。
ルールは通常の将棋と基本的に同じですが、「すべての駒を動かす」という暗黙の了解があります。
桜舞う舞鶴山で繰り広げられる人間将棋は日本文化そのもので、エンターテインメント的要素もあるので将棋ファンならずとも是非とも一度は見ておきたいイベントです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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